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2010-03

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『北條龍虎伝』 海道龍一郎

ありそうで、なかなかない後北條氏、それも若き日の北條氏康を主人公に据え、氷龍(こおりのりゅう)として、片や焔虎(ほのおのとら)という異名で北條綱成を対比させながら描いていく。何となく漫画的というか、ヒーロー物語というか、とても読みやすいのだが、何となく今ひとつ深みが足りないような気がする。
北條家の三代目としての苦労とか、武将としての俯瞰的なもののとらえ方や戦略的な見方など、とてもわかりやすく描かれていて、そういう意味では大変よく描かれていると思うのだが、ところどころに陳腐な表現だな、と感じてしまったりする箇所があって残念。

たとえば祝言という章。武骨で直線的な綱成が氏康の妹蝶姫に思いを寄せ、氏康の計らいで二人が知らずに遭遇する場面。
-「……あ、ああ……身共は氏康様に呼ばれましただけで……あの……その、まさか蝶姫様がここにおられるとは露知らず……、つまり、その……追いかけてきたわけではなく……蝶姫様がここにおられるとわかっていれば、来ないようにいたしたわけで……いや、何の思惑があったわけでもなく……あ、あれ、俺は何を言ってるのだろう……」
という具合。ちょっと漫画的ではないだろうか。

-気が付くと、綱成は拳を握り締めて自分の頭をがんがんと殴りながら喋っていた。
という表現が続く。

それでもこの小説の会話スタイルになれてくると、ストーリーはわかりやすいいので引き込まれる。冒頭は三代目となった氏康の危機状態から始まる。今や義弟となった綱成が三千の兵で守る河越城は、古河公方、関東管領上杉氏らの兵八万五千に囲まれる。多勢に寡勢、和議を請えば、河越城だけでなく江戸城、相模までとられる危機。この危機にどう対応するか、というところで、物語は氏康の少年時代にさかのぼっていく。

そして、中途にややこしい鎌倉公方と関東管領の関係などを古老の語る物語として語らせ、北條家をとりまく歴史的背景をわかりやすく伝えるなど、読み手を配慮した工夫もある。
二代目氏綱がいかに父早雲の功績を子氏康に伝えていくかことも主題にしているのだが、この二代目というのは一般的に創業の初代ほどに目立たない。ところが、氏綱は目立たないながらも着実に北條の力をのばし、優れた人物であることがよく伝わる。三代にして、関八州に覇をなす、という早雲以来の覇業に向けて、戦国武将としての一面と民と義を重んずる領主としての一面を懊悩とともに描きながら、子の氏康もまたその命題を引き継ぐ所以に読者は引き込まれ、いつの間にか一緒に悩む。
初陣から河越城奪取など合戦もそれなりによく描かれている。

そして、物語は冒頭の河越城攻防のクライマックスへと進んでいく。河越夜合戦の顛末が語られる乾坤の章は、もうちょっと合戦を堪能したいような物足りなさとともに、物語は終わる。

全体として、戦国時代にあって、氏康の人となりは、かなりロマンチックで正義感の強い人物として描かれるが、同時代の武田信玄、上杉謙信と比べ、あまり語られることのない名君。北條氏康のさらなる人生もぜひ読んでみたいところだ。血縁で固めた支城ネットワークや小競り合いも含めた対抗勢力との軍事バランス、領地経営など面白そうな要素はたくさんある。また、有名な小田原評定から後北條氏滅亡にいたるまでドラマは満ちている。もっといろいろな書き手の手になるのを心待ちにしたい。


北條龍虎伝 (新潮文庫)北條龍虎伝 (新潮文庫)
(2008/12/20)
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『島津奔る』 池宮彰一郎

島津義弘を中心とした、朝鮮の役の撤退から始まり、天下分け目の関ヶ原合戦とその顛末を描いた力作。ときどき、強制的に現代に戻される箇所があって、少し興ざめするが、新たな視点もあり、なかなか面白い。少し強調しすぎの感がある登場人物もわかりやすい。

ことさらに強さが強調される島津軍は、次のように表現される。
--石曼子(シ-マンズ)。
明、朝鮮ではそう呼んだ。わずか七千の手勢で三十倍の敵、二十万を完膚なきまでに討ち破り、無敵を誇る朝鮮水軍の名称李舜臣を撃破した島津の威名は、鬼神の如く敵を畏怖せしめる。

全体を通して、島津義弘と兄義久の関係が脈流となっている。そして、兄弟のぎくしゃくとした関係は、義久の妬心によるものと設定されている。
義久に接した家康、謀臣本多正信が評する。

-かなり長い間、両者の模索が続いた。
 ふと、ある事に思い当たった。家康も、正信もである。
 「あれか?」
 「さよう。あれでござる。」
 家康は、その答えを確かめるように小首を傾げた。そして破顔一笑した。
 「まさか、兄弟の仲だぞ」
 「いかさま、左様でござった」
 正信は、逆らわなかった。
 --妬心、である。義久が義弘の声名に対する嫉妬。
 あり得ぬことではなかった。

そのほかにも、繰り返し表現される小心者としての家康像や、能吏だが、現代の官僚になぞらえて大局的な見方のできない、石田三成など、わかりやすい人間像設定が工夫されている。ただ、人間の一面は別の一面とつながり、欠点は長所でもあり、思わぬ一面もあったりするのが魅力的なのだが、その点もぬかりなく描かれているので、人物に広がりと重みがある。

家康が自己を小心者と自覚しつつ、

-「総見院殿(信長)なら、江戸を空にして東海道をひた走り、転瞬の間に治部少と干戈を交えたであろう。太閤(秀吉)なら会津上杉と和を結び、毛利・島津を調略して治部少を挟み撃ちにする…わしにはそれができぬ。その天分も才智もない」

そして、家来どもにまつりあげられながら天下取りをめざすはめに。

-「その辛さがその方らにはわかっておらぬ…うぬらは欲が深すぎる。二百四十余万石という日本一の大禄を得ておきながら、太閤が死ぬと早速にわしを押し立て、あろう事か天下取りを企んだ。」


前巻が終わって、きな臭い臭いがし始めてくる。

-戦には、匂いがある。
 と、義弘はいう。

さまざまなエピソードを描きながら、物語は関ヶ原へと進んでいく。
兄義久は弟義弘の求めに応ぜず、国元から兵を送ろうとしない。そこで勝手に国元をあとに大阪屋敷まで、駆ける者が続出した。

-だが、噂は燎原の火のように伝わり、庶民の人気は爆発した。前代未聞の走り、あるじの危殆に雲煙万里の山坂を越えて島津が奔る。人々は最初戸惑い、次に興味を惹かれ、その走りを見ようと街道に集った。
 島津勢は、その中を走った。その姿は美しさと程遠い、惨憺たるものだった。暴風豪雨にさいなまれ、疲労困憊の極に達した連中が、よろぼい走り過ぎていく。後から後から続く。
 ふしぎな感動が人々の胸中に湧いた。

合戦前夜、義弘は家康を訪れて、天下の秘事を語る。家康は東軍荷担を口にする義弘を捨て置き、結果的に西軍に加わらざるをえなくなる。天下分け目の合戦にあっては、中立は許されないのである。表面的に中立であっても、積極参戦しないことは、後日勝者から諫められることになる。また、日和見は卑怯者の誹りや家中の汚名を残すおそれがある。この辺りの処し方が難しいところである。

一面で優秀ながら、人心をつかめない三成の人物像は、現代の官僚とダブらせて高慢に描かれる。夜襲を提案する義弘(島津惟新)に、にべもない。

-「どうであろう。遠来の備前中納言殿を煩わすのが得策でないとお考えなら、薩摩島津一手で夜襲を致そう。宇喜多勢一万七千に後詰めを願って、成功の兆しがみえたら戦場に出馬いただく」
 「惟新殿、少しお控え下さらぬか。主将はこのわしだ」
 三成は、そこまで言い切った。
 義弘は、忿怒を抑えるしかなかった。

さて、いよいよ合戦がはじまると、臨場感のある描写が続く。

-戦場というのは、常識を越えた狂気の場である。人が人を殺す。殺さなければ殺される。理非も曲直もない。ただ生きんがために殺し合うのである。
 髪の毛までが逆立つという。髪の毛どころか総毛逆立つのである。恐ろしいだけではない。生きようとする本能、相手を倒そうという本能が肉体を支配して、髪の毛一本、肌毛一本までが逆立って、相手に立ち向かうのだ。

関ヶ原でも人間的魅力に乏しい人物として設定される人物が出てくる。その一人、吉川広家。

-南宮山中腹の稜線で、東西両軍の死闘を望見する吉川広家は、得意の絶頂にあった。
 --この天下分け目の合戦の、勝敗の鍵はおれが握っている。

逆に知略胆略に富む人物として描かれる大谷吉継。
最初は西軍が優勢なのである。それが、天下の卑怯者、小早川秀秋の裏切りで流れが変わる。この小早川軍でも裏切りを、よしとしない秀吉恩顧の陪臣、松川主馬なども描かれる。

そして、勝敗が決まりつつある中、この物語のクライマックスが訪れる。

-「鋒矢の陣形を取れ!」

敗軍に属した島津勢が退却戦である。しかも名に恥じることなく、武威を高めることを目的とした退散。こんなことがいかにして行われたか、この美学を描くために書かれた物語だ。細かなエピソードを辿りながら、薩摩へと帰国した義久にとって、合戦の後始末は大仕事。というより、いかに領土、領民をとどめおくか、本領安堵のために行った退却戦だった。
家康と三成と義弘のみが気づいた天下の秘事、これを質にして本領安堵ばかりか、琉球を加増されるという結びまできて、こじつけでもあり道理でもあるかな、と思えた。

登場人物のわかりやすすぎる性格描写は読み手の好悪の分かれるところだと思う。技巧的に司馬遼太郎のような匂いも感じるが、いかんせん、司馬遼太郎ではないのである。薩摩言葉とエピソードの数々にどこか漫画的な面白みを感じた。

ちなみにこの本、過去に司馬遼太郎作品の『関ヶ原』と類似箇所があり、回収、絶版になったとのこと。素材が同じだとエピソードも似るのかもしれませんが、基本的に味わいがずいぶんと違うように思えたので、そこまでしなくてもと思うのだが。また、『関ヶ原』が読みたくなってしまった。

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『彰義隊』 吉村昭

彰義隊の顛末と合わせて、その活動舞台となった上野寛永寺の山主・輪王寺宮能久親王の一代記。
鳥羽・伏見の戦いから始まる物語は、将軍徳川慶喜が大政奉還後もなお、武力による倒幕をめざす薩長側に対して朝敵となることをおそれ江戸に逃げ帰るくだりを淡々と描く。以下に長いが、輪王子宮が皇族でありながら、なぜ朝敵となったのかのストーリーを追ってみる。

幕軍の軍艦で江戸に着き、ひたすら恭順するも、追討されることになり、窮した慶喜は、前将軍家茂に降下した和宮に朝廷への恭順の意を伝えてもらおうと考える。

-和宮の悩みは、大きかった。
  嫁いだ徳川家は、天皇の名をもって討伐される対象となっている。そのような徳川家と行動をともにすれば、朝敵となり、逆に徳川家に背を  向ければ婚家に対する義理を欠く。いずれにもくみすることはできず、窮極の折には、ひそかに自害をも考えていた。

和宮は結局、慶喜の使者に会うことを拒む。次に慶喜は天璋院、すなわち前々将軍家定夫人にあい、和宮への仲介を願う。紆余屈折をへてようやくなった和宮の書状と慶喜の徳川家存続の嘆願書が朝廷に提出された。岩倉具視は恭順が誠意あるものなら、徳川家存続も不可能ではないと伝えるが。一方で薩摩藩は強硬姿勢をくずさない。

-武家参謀の西郷隆盛は、同藩の大久保利通にあてた書簡で、
 「慶喜が退隠したいなどという嘆願は、甚だもって不届き千万。なんとしてでも切腹させねばならぬ。和宮様もやはり賊徒にくみして、慶喜を退隠させればすむと思っているようだが、断乎追討しなくてはならぬ」
 と、書き送った。

その間にも朝廷軍の先鋒が江戸に向かっている。慶喜はあくまでも朝廷に恭順の姿勢をしめすために、上野寛永寺で謹慎することを決める。

-寛永寺は、二百四十三年前の寛永二年、江戸城を守るため比叡山延暦寺になぞらえて東叡山寛永寺として創建し、やがて幕府の墓所をかまえた。

東の叡山で東叡山、なるほど。

-根本中堂には、後水尾天皇の書かれた寛永寺の額をかかげ、代々輪王子宮法親王が一山を管領した。慶喜が寛永寺で謹慎しようとしたのは、朝廷と縁の深い寺と考えたからであった。

寛永寺がようやく出てくる。朝廷軍を率いるのは、東征大総督、有栖川宮熾仁親王である。朝廷軍の攻撃目標は江戸だ。江戸は当時(今もだが)人口も多く、もし戦場になれば大混乱をきたす。これを避けるため、最終手段として、朝廷と関係のある皇族の輪王寺宮から慶喜への寛大な処置を朝廷にうったえてもらうことになった。
勝海舟とともに慶喜の嘆願に力を尽くす山岡鉄舟は必至に頼み込み、何とか聞き入れられる。ここでのやりとりには執当覚王院が窓口となっている。

-朝廷軍の先鋒が東海道を進撃してきているという報せに、輪王子宮は深い憂慮をいだいていた。朝廷軍が江戸に進入してくれば、当然、幕府側との間に戦争が起こる。町民たちは逃げまどい、家も家財も焼きはらわれ、多くの者が命までうばわれる。寛永寺山主となってから十年近く、宮にとって江戸の町々は故郷に近いものになっていて、町の者たちに対する愛着心も強い。

宮は慶喜の謝罪を朝廷に認めさせることが、江戸を救うことにつながると考え、有栖川宮に会いに行く。そして、このあとの輪王子宮の運命を変えていくきっかけともなる、有栖川宮の屈辱的な対応に出会う。ずいぶんと引用ばかりだが、この先ももう少し引用を続けないと気持ちが伝えられない。

-有栖川宮は、口をひらき、
  「慶喜の朝廷に対する叛逆は明白であり、その大罪に対して追討の勅令が発せられたのである。今になって許しを請うても、どうにもならない」
 と、冷ややかな口調で言った。

作者は有栖川宮の私的な怨念を理由にあげるが、それは前将軍家茂に嫁いだ和宮が有栖川宮の婚約者だったからである。坊主憎けりゃ。、袈裟まで憎し。それに比べて、輪王子宮はまっすぐである。

-「私は、単に慶喜一人のために陳情しているのではありません。慶喜追討となれば朝廷軍が江戸に入ることになり、江戸は大混乱におちいります。多くの町民が逃げまどい、傷つき斃れ、そのようなことになれば、天子様の御心をなやますことにもなり、それを恐れているのです」

このあとも日を改めて、参謀に会ったりと手をつくすのだが、翻心はできない。この上は、京にいき天皇への直訴と決意するが、有栖川宮にもそのことを伝えねばと、さらなる面会を申し込む。

-「京にのぼって天子様に直訴するなどとは愚かしきかぎりである。天子様は、私を東征大総督に任じて慶喜追討を命じられ、錦の御旗もおさずけ下さった。そのような天子様が、あなたの直訴をおうけなさると思われるのか。会うことはもとより、追い返されることはあきらかだ」
 有栖川宮の声には、怒気がふくまれていた。

誠に無念ながら、武力を背景にした有栖川宮の江戸へ戻れとの命令に逆らうことはできず、屈辱にたえながら、有栖川宮のいる駿府城をあとに江戸へ引き返す。

ここまでで、いつのまにか幕府側につくことになってしまった輪王子宮。このあと、江戸に到着した朝廷軍は皇族である輪王子宮への接触をはかるが、執当覚王院が宮には無断でことごとくはねのけてしまう。

一方、一部の幕臣たちは、義をあきらかにするという意味の彰義隊を結成される。当初、彰義隊は物騒になった江戸の治安に活躍する。しかし、次第に数を増やす彰義隊に危機感を募らせた大総督府は、解散命令を下すが、彰義隊を指示する覚王院は拒絶する。彰義隊は輪王子宮を警護することを目的に上野の山に集っていた。

ここまでが長い背景のストーリーだが、ここから上野戦争が始まり、輪王子宮の苦難の日々が始まる。朝敵となった宮は部下とともに長い逃亡に出る。流れ流れて、榎本武揚とともに幕府軍艦で東北の地に。これらの逃避行は宮自身の意志によって動いている様子はあまり描かれない。この本のおもしろさは、逃避行の細かな描写にあるのだが、宮自身がこう行動しようと命を下すのではなく、こうして下さい、とお願いされる立場で行動する。相当に悲惨な状況ながらも、皇族らしい物腰や素直な考え方に同情的好感を抱く。

いつもながら、ていねいで淡々とした描写で小さなエピソードを積みあげていく中で、必死に活路を見いだそうとする宮の姿に静かで大きな感動がわいてくる。その無私の生き方は、官軍と称している者たちよりいさぎよく見える、そういうふうに描かれている。奥羽列藩同盟の盟主にまでまつりあげられてしまい、最後は官軍に帰順、幽閉の身となる。激情を持たぬかに見える宮の心の内はどうであったのか。一方激情に富む執当覚王院は、壮絶な死をとげる。

この時代、武士でなくともいさぎよい生き方、おのれを犠牲にしながら、後悔しない生き方がそこここにあった。有栖川宮がなくなったあと、ようやく宮にも活躍の場がやってくる。北白川宮能久親王となった宮は最後は台湾の戦地で没した。やはり戸外でなくなってしまった。今、乗馬の像が北の丸公園に佇む。寛永寺は、今や動物園や美術館となっている場所も含めて、上野の広大な敷地を占めていたようだ。往事の面影をしのびに訪れてみたいと思う。

丹念な取材をもとに書かれたという本作品は、抑えた筆致で、ことさらに書き手の思い入れを抑えたような運びがかえって、静かな感動につながっている。

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(2008/12/20)
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『峠』 司馬遼太郎

読み出したら、寸暇を惜しんで読みたくなる。
司馬遼太郎の小説でもかなり面白い方に入ると思う。いつもながら、のっけから引きずり込まれる語り口だ。読み終わって、この小説が面白いのか、河井継之助という人物が魅力的なのか、はたしてどちらなのだろうか、と考えてしまった。

あまりをこの時代を知らない頃は歴史の流れでやはり明治維新という大きな流れに抗った奥羽越列藩同盟にほとんど関心はなかった。ところが、こうした東軍のようす、会津藩をはじめ朝敵の汚名をきせられ、犠牲になった者たちへの関心がいつしか強まってきた。そんな中での一冊だ。
幕末から始まる物語の主人公は、徳川譜代の小藩長岡藩の家老になる人物で、幕末期にいかに藩を導いたかが描かれる。変人だ。変わり者は同時代の人からみれば時に不可解だったり、不快だったりするのだろうが、後世の私には魅力的だ。また、見事に魅力的に描かれているのがこの小説だ。
安政の大獄の反動から倒幕への流れで、なるほどと思ったのは、以下。

-この、
 参覲交代制の廃止
 大名の妻子の江戸住い廃止
 ほど、幕府の命脈を決めた政令はなかったであろう。
 「春嶽はばかなことをする」
 と、幕臣のあいだで大いに不評判であった。なぜならばこの直後から長州藩の鼻息がつよくなり、やがて反乱をおこした。

この時代、流れは尊皇攘夷、そして倒幕なのだが、徳川譜代の藩に属す河井にとっては、思考や行動の根はあくまでも藩である。河井は陽明学の徒である。陽明学はおそろしい学問だ。知識としての学問ではなく、知行合一、すなわち行動をその教えるところに近づけ、自分を律する努力を伴う教えである。前半は陽明学を傍観しながら、行動の原理を探る河井の生き方。後半は、なぜ一藩あげて西軍(薩長軍)と戦うことになるのか、いかにしてそこにたどりつくのかを丹念に描いている。海外の事情もよくわかっている、今後の日本の進むべき方向もわかっている、そのなかで、長岡藩の家老としてどう藩の進むべき進路を舵取りするか、この時代にあって嘘のような進路を選択する。

なぜ、最後は藩をあげての抵抗なのか、このあたりの顛末は抗えない大きな時代の流れを感じる。無念である。さらに河井が藩の考えを伝えようと西軍の軍監岩村精一郎との会談を行う際の記述。

-昼もよほどすぎたころ、官軍の陣営から使いがきて、
 「参られよ」
 という。やや言葉つきがぞんざいになっているのは、どういうものか。継之助は衣服のちりをはらい、麻の裃をつけ、案内のあとに従った。官軍本営にゆくのかとおもえば、使者はちがうという。
 「寺でござる」
 といった。慈眼寺といった。
 小千谷の慈眼寺といえば、このあたりでは知られた禅宗の古刹である。しかし本営を会談の会場にせず、なぜそういう寺がえらばれたのか、継之助も多少不審をもった。

この慈眼寺には会見の間が復元されているそうである。一度訪れてみたいと思う。

最後に河井の死に様がまた変わっている。紹介したいのは山々だが、興ざめになるので、やめておく。代わりに、河井が武士であったというエピソード。

戦時なので、傷ついた左足の膿をとるため、担架で運ばれながら手当を受ける。
-「気を失うような痛さでありましょうが、旦那様はひと声も漏らされませなんだ」
 と、松蔵は晩年まで語った。

そして、この時、会津にぬける国境の八十里峠を越えながら、よんだ一句。

 八十里こしぬけ武士の越す峠
と、継之助は我が姿を自嘲した。

最後に、やや興ざめだが、河井の生き方そのものとは別に、藩の政治的な動きのため戦争の犠牲となった人たちも大勢いた。それらの人々が河井に対して厳しい評価をするのはやむをえないと思う。武士に生まれなかった人たちはサムライらしい生き様をしようもない。とはいえ、それぞれの立場で考えれば、河井の武士としての立場での生き方はとてつもなく偉大に思える。


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Author:yeria
つれづれなるなるままに。
面白かった本があると連想的に関連する本を読む傾向があります。
通勤電車の中(居眠りしながら)が主な読書時間です。

 

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