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『彰義隊』 吉村昭

彰義隊の顛末と合わせて、その活動舞台となった上野寛永寺の山主・輪王寺宮能久親王の一代記。
鳥羽・伏見の戦いから始まる物語は、将軍徳川慶喜が大政奉還後もなお、武力による倒幕をめざす薩長側に対して朝敵となることをおそれ江戸に逃げ帰るくだりを淡々と描く。以下に長いが、輪王子宮が皇族でありながら、なぜ朝敵となったのかのストーリーを追ってみる。

幕軍の軍艦で江戸に着き、ひたすら恭順するも、追討されることになり、窮した慶喜は、前将軍家茂に降下した和宮に朝廷への恭順の意を伝えてもらおうと考える。

-和宮の悩みは、大きかった。
  嫁いだ徳川家は、天皇の名をもって討伐される対象となっている。そのような徳川家と行動をともにすれば、朝敵となり、逆に徳川家に背を  向ければ婚家に対する義理を欠く。いずれにもくみすることはできず、窮極の折には、ひそかに自害をも考えていた。

和宮は結局、慶喜の使者に会うことを拒む。次に慶喜は天璋院、すなわち前々将軍家定夫人にあい、和宮への仲介を願う。紆余屈折をへてようやくなった和宮の書状と慶喜の徳川家存続の嘆願書が朝廷に提出された。岩倉具視は恭順が誠意あるものなら、徳川家存続も不可能ではないと伝えるが。一方で薩摩藩は強硬姿勢をくずさない。

-武家参謀の西郷隆盛は、同藩の大久保利通にあてた書簡で、
 「慶喜が退隠したいなどという嘆願は、甚だもって不届き千万。なんとしてでも切腹させねばならぬ。和宮様もやはり賊徒にくみして、慶喜を退隠させればすむと思っているようだが、断乎追討しなくてはならぬ」
 と、書き送った。

その間にも朝廷軍の先鋒が江戸に向かっている。慶喜はあくまでも朝廷に恭順の姿勢をしめすために、上野寛永寺で謹慎することを決める。

-寛永寺は、二百四十三年前の寛永二年、江戸城を守るため比叡山延暦寺になぞらえて東叡山寛永寺として創建し、やがて幕府の墓所をかまえた。

東の叡山で東叡山、なるほど。

-根本中堂には、後水尾天皇の書かれた寛永寺の額をかかげ、代々輪王子宮法親王が一山を管領した。慶喜が寛永寺で謹慎しようとしたのは、朝廷と縁の深い寺と考えたからであった。

寛永寺がようやく出てくる。朝廷軍を率いるのは、東征大総督、有栖川宮熾仁親王である。朝廷軍の攻撃目標は江戸だ。江戸は当時(今もだが)人口も多く、もし戦場になれば大混乱をきたす。これを避けるため、最終手段として、朝廷と関係のある皇族の輪王寺宮から慶喜への寛大な処置を朝廷にうったえてもらうことになった。
勝海舟とともに慶喜の嘆願に力を尽くす山岡鉄舟は必至に頼み込み、何とか聞き入れられる。ここでのやりとりには執当覚王院が窓口となっている。

-朝廷軍の先鋒が東海道を進撃してきているという報せに、輪王子宮は深い憂慮をいだいていた。朝廷軍が江戸に進入してくれば、当然、幕府側との間に戦争が起こる。町民たちは逃げまどい、家も家財も焼きはらわれ、多くの者が命までうばわれる。寛永寺山主となってから十年近く、宮にとって江戸の町々は故郷に近いものになっていて、町の者たちに対する愛着心も強い。

宮は慶喜の謝罪を朝廷に認めさせることが、江戸を救うことにつながると考え、有栖川宮に会いに行く。そして、このあとの輪王子宮の運命を変えていくきっかけともなる、有栖川宮の屈辱的な対応に出会う。ずいぶんと引用ばかりだが、この先ももう少し引用を続けないと気持ちが伝えられない。

-有栖川宮は、口をひらき、
  「慶喜の朝廷に対する叛逆は明白であり、その大罪に対して追討の勅令が発せられたのである。今になって許しを請うても、どうにもならない」
 と、冷ややかな口調で言った。

作者は有栖川宮の私的な怨念を理由にあげるが、それは前将軍家茂に嫁いだ和宮が有栖川宮の婚約者だったからである。坊主憎けりゃ。、袈裟まで憎し。それに比べて、輪王子宮はまっすぐである。

-「私は、単に慶喜一人のために陳情しているのではありません。慶喜追討となれば朝廷軍が江戸に入ることになり、江戸は大混乱におちいります。多くの町民が逃げまどい、傷つき斃れ、そのようなことになれば、天子様の御心をなやますことにもなり、それを恐れているのです」

このあとも日を改めて、参謀に会ったりと手をつくすのだが、翻心はできない。この上は、京にいき天皇への直訴と決意するが、有栖川宮にもそのことを伝えねばと、さらなる面会を申し込む。

-「京にのぼって天子様に直訴するなどとは愚かしきかぎりである。天子様は、私を東征大総督に任じて慶喜追討を命じられ、錦の御旗もおさずけ下さった。そのような天子様が、あなたの直訴をおうけなさると思われるのか。会うことはもとより、追い返されることはあきらかだ」
 有栖川宮の声には、怒気がふくまれていた。

誠に無念ながら、武力を背景にした有栖川宮の江戸へ戻れとの命令に逆らうことはできず、屈辱にたえながら、有栖川宮のいる駿府城をあとに江戸へ引き返す。

ここまでで、いつのまにか幕府側につくことになってしまった輪王子宮。このあと、江戸に到着した朝廷軍は皇族である輪王子宮への接触をはかるが、執当覚王院が宮には無断でことごとくはねのけてしまう。

一方、一部の幕臣たちは、義をあきらかにするという意味の彰義隊を結成される。当初、彰義隊は物騒になった江戸の治安に活躍する。しかし、次第に数を増やす彰義隊に危機感を募らせた大総督府は、解散命令を下すが、彰義隊を指示する覚王院は拒絶する。彰義隊は輪王子宮を警護することを目的に上野の山に集っていた。

ここまでが長い背景のストーリーだが、ここから上野戦争が始まり、輪王子宮の苦難の日々が始まる。朝敵となった宮は部下とともに長い逃亡に出る。流れ流れて、榎本武揚とともに幕府軍艦で東北の地に。これらの逃避行は宮自身の意志によって動いている様子はあまり描かれない。この本のおもしろさは、逃避行の細かな描写にあるのだが、宮自身がこう行動しようと命を下すのではなく、こうして下さい、とお願いされる立場で行動する。相当に悲惨な状況ながらも、皇族らしい物腰や素直な考え方に同情的好感を抱く。

いつもながら、ていねいで淡々とした描写で小さなエピソードを積みあげていく中で、必死に活路を見いだそうとする宮の姿に静かで大きな感動がわいてくる。その無私の生き方は、官軍と称している者たちよりいさぎよく見える、そういうふうに描かれている。奥羽列藩同盟の盟主にまでまつりあげられてしまい、最後は官軍に帰順、幽閉の身となる。激情を持たぬかに見える宮の心の内はどうであったのか。一方激情に富む執当覚王院は、壮絶な死をとげる。

この時代、武士でなくともいさぎよい生き方、おのれを犠牲にしながら、後悔しない生き方がそこここにあった。有栖川宮がなくなったあと、ようやく宮にも活躍の場がやってくる。北白川宮能久親王となった宮は最後は台湾の戦地で没した。やはり戸外でなくなってしまった。今、乗馬の像が北の丸公園に佇む。寛永寺は、今や動物園や美術館となっている場所も含めて、上野の広大な敷地を占めていたようだ。往事の面影をしのびに訪れてみたいと思う。

丹念な取材をもとに書かれたという本作品は、抑えた筆致で、ことさらに書き手の思い入れを抑えたような運びがかえって、静かな感動につながっている。

彰義隊 (新潮文庫)彰義隊 (新潮文庫)
(2008/12/20)
吉村 昭

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