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『ニコライ遭難』 吉村昭

明治24年、後にロシア皇帝となるニコライ皇太子が来日した。シベリア鉄道起工式でウラジオストックに赴く途中での訪日だった。長崎、鹿児島、神戸、京都などから東京に向かう予定だった。なぜか鹿児島が入っていたことから、西南の役に破れた西郷隆盛がロシアに逃れ、それを護送してくるためだという噂が当時まことしやかに流れたそうである。
長崎、鹿児島、神戸を経て京都まで各地で大歓迎を受けながら、滋賀県の大津を訪れたときにいわゆる大津事件が発生した。

-道の右手にある下小唐崎町五番地の津田岩次郎宅の入口の前にも巡査が立ち、皇太子の車が車輪の音を鳴らせて近づいてゆくと、姿勢を正して敬礼した。
 皇太子の車がその前を通りすぎようとした時、挙手の手をおろした巡査が、急にサーベルをひきぬき、進む人力車の右側一尺ほどに走り寄った。
 刀身が陽光を反射してひらめき、その刃先が、鼠色の山高帽をかぶった皇太子ニコライの頭に打ち下ろされた。

よりによって皇太子を襲ったのは暴漢ではなく、警備の巡査だった。当時の日本は不平等条約の改正に腐心し、法整備を進め、法治国家たるべく努力をしていた。軍備も産業もロシアはもちろん、列強に遠く及ばず、国をあげての歓迎の最中の出来事は、まさしく国難だったに違いない。

この国難をいかに乗り切ったかということを、当時と同じ時間や息づかいのなかで伝えてくれるのが、この作品の魅力だ。時代の空気や人々の生き方を丹念に調べたであろうエピソードの積み重ねで描いていく。それら時代に生きた人たちは、庶民であったり、官の様々な立場の人たちであったり、とこの事件に関わった人たちを丁寧にひろいあげていく。

物語は目の前に差し迫るいくつもの抜き差しならぬ課題をどう乗り込めるか、どきどきさせながら進んでいく。ひとまずの問題は皇太子の受傷による容態である。もし、万が一のことがあれば、戦争にも発展しかねない。これは幸いにも重傷にはいたらなかった。次に皇太子の訪日スケジュールが予定どおりいくかということである。本来なら東京に来訪し、明治天皇と会う予定であった。これも、途中でへそを曲げて帰国されると国と国の問題に発展しかねない。

これには、天皇みずからが即座に京都に皇太子を見舞うという誠意あふれる対応で、皇太子にも十分な謝意を伝えることができた。幸いに皇太子は東京行きを強く希望するが、治安を心配した母親のはたらきかけもあり、父皇帝の命でスケジュールなかばで日本を離れた。

皇太子が去った日本では、対露関係から犯人の処罰が次の問題となった。為政者は場合によっては、多大な賠償が求められ、戦争にも発展しかねないという恐ろしい危惧を抱いていた。ところが、ここでもまた難題があった。しかも国内に内在する問題であった。

当時の刑法では第百十六条に天皇・三后(大皇太后、皇太后、皇后)・皇太子に対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス、とあり、皇太子ニコライを日本の皇太子と同一のものとみるかどうかが争点となった。当然に法の精神は日本の皇太子のみをさし、外国の皇太子には適用されないというのが、司法界の大方の見方だったようである。その場合、一般人に対する謀殺未遂ということになり無期刑になる。何が何でも死刑にしないとロシアに体面上まずい、というのが、総理大臣はじめ各大臣の考えであった。この対立はかなりこじれる。

薩長閥以外からなる司法界は法解釈の歪みに対して頑強な姿勢を崩さない。面倒と思ったのか、たとえば後藤逓信相は、幕末の頃のような過激な意見を元老伊藤博文に言う。
-「もしも、裁判で死刑にすることが困難である場合、一つの策があります。刺客に金をあたえて津田三蔵を殺させ、病死したと発表するのは容易です。ロシアでは、よくこのようなことをして処理するときいております」

おいおい、といいたくなるが、

-後藤の言葉に、陸奥もうなずいた。

伊藤の名誉のために。

-伊藤の視線が、二人にすえられ、
 「なんという愚かしいことを口にするのか。決してそのようなことはすべきではない。いやしくもわが国は法治国家であり、そのような無法はゆるされぬ。人にむかって語るも恥ずかしきかぎりだ」
 と、怒声に近い声で言った。

片やどんな無理難題を押しつけられるかと犯人の一命をさしだそうとする側と、心情はじゅうぶんに理解できるが、あくまでも法文を遵守し、法治国家の体面を保とうとする側。過ぎ去ってしまえば、歴史の一こまに過ぎない出来事も、当時の感覚では読めば、冷や汗ものである。そうした歴史の一面をていねいに伝えてくれる。

物語は、犯人の巡査が死去するまでをたんねんに描くが、結局のところなぜ、という動機はもはや本人以外、もしかしたら本人にもよくわからないままに、時代は大きな変化を遂げていく。強露を恐れるかのように国をあげての熱心な歓迎と皇太子を襲った凶刃は、表裏一体かもしれない。犯人捕縛と皇太子救助に功のあった二人の車夫も思わぬ形で、栄誉とその後の挫折があった。

国のためにという一心で、それぞれの立場から困難に立ち向かった当時の人たちの勇気と誠実さがよくわかる。ちなみに解説がとてもよく、あらためてこの作品のすばらしさを伝えてくれている。

ニコライ遭難 (新潮文庫)ニコライ遭難 (新潮文庫)
(1996/10)
吉村 昭

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